AIに代替されないために必要なのは、遊び?
先日の高城剛さんのメルマガ(Vol.514)で、ヨハン・ホイジンガの「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」について紹介されていました。自動化される時代に生き残るための「遊び」の重要性について語っています。
言わずと知れたオランダの歴史家による名著ですが、今改めて読み直すきっかけとなりました。人間の本質は「遊び」にあり、文化(文明)の発展には「真面目」とのバランスが必要なことを説いています。昨今のギスギスとした世の中の原因の一つに「真面目」に偏り過ぎていることに気づかされます。今こそ「遊び」が大事であることを教えてくれる一冊です。
遊びは文化よりも古い。
すべての遊びは、まず第一に、何にもまして一つの自由な行動である。命令されてする遊び、そんなものはもう遊びではない。
遊びとは、あるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に従っている。その規則はいったん受け入れられた以上は絶対的拘束力をもっている。遊びの目的は行為そのもののなかにある。それは緊張と歓びの感情を伴い、またこれは「日常生活」とは、「別のもの」という意識に裏づけされている。
十九世紀における真面目の支配
労働と生産が時代の理想となり、やがてその偶像となった。ヨーロッパは労働服を着込んだのだ。社会意識、教育熱、科学的判断が文化過程の支配者となった。
目次
- まえがき 序説
- Ⅰ 文化現象としての遊びの本質と意味
- Ⅱ 遊び概念の発送とその言語表現
- Ⅲ 文化創造の機能としての遊びと競技
- Ⅳ 遊びと法律
- Ⅴ 遊びと戦争
- Ⅵ 遊びと知識
- Ⅶ 遊びと詩
- Ⅷ 誌的形成の機能
- Ⅸ 哲学の遊びの形式
- Ⅹ 芸術の遊びの形式
- Ⅺ 「遊ビノ相ノモトニ」見た文化と時代の変遷
- Ⅻ 現代文化における遊びの要素
- 解説